小春日和 インディアン・サマー
2018年 04月 21日

どうしたもんじゃろのぉ、と考えていても始まらないので、
再開することにしました。ここのブログ。
ミクシイに始まり、エキサイトブログ、Twitter、Facebook、Instagram
もしかしたら、わたしは引越好き、あるいは新しもの好きなのかもしれません。
渡り歩くに連れて、スマホという小さい画面を見ながら
指を動かして文章を打つというか、アルファベットをなでる?
そんなことをしていたら、さらに文章力が落ちたようにおもいます。
小さな画面では、思考も小さくなるのかしらん。
先日、つれあいがおもしろいことを言いました。(つれあい、一度使ってみたかった。)
彼が読んでいる、『子どもがネットに壊される』というメアリー・エイケンさんの著書によると、
タブレットばかりで育った赤ちゃんに、なんと紙の雑誌を見せると、タッチパネルに行うのと同じフリック操作をして、紙面の画像が変わらないことに不思議な顔をするのだと教えてくれました。
しかも、この映像がYouTubeで450万回以上、再生されています。
恐ろしい世の中になりました。
さて、先日とある大学の女子トイレに
『ラーメンの残りを洗面台へ 絶対に流さないで下さい。 詰まりの原因となります。』
と貼ってあることに驚愕をしました。
ちなみに、このトイレのある建物には、インスタントラーメンなるものは販売されていません。
学食とカフェがあるのみだと思うのだけど、不確かではあります。
少し歩くとコンビニがあるけれど。
でも、どうやら、そういう問題ではないらしい。
この大学に限らない話のようだし、紙切れ一枚だけど、深いものがあるようです。
昔と違って、トイレにも居住性を求められ、安らぎ感というか、落ち着く感か満載のデザインも多くて
確かに居心地はいいかもしれないけれど、トイレで読書をすることはあっても、
トイレで食事をすることはないし、でも、さらに、あんな排水溝のところに、
ラーメンを長そうとは思わない、はず。
うーん。もしかして、天下無敵の女子高生時代だったら、ノリでやっちゃうのだろうか。
でもな、排水溝に溢れんばかりの麺がいることを想像すると、いやだな。
どうせなら、便器に投げ捨てて流すかな。
この張り紙一枚で、色々考えさせてくれます。
そういえば、以前高校生が地下鉄の中で、ラーメンを食べていて、かなりの衝撃を受けました。
先日も、地下鉄のトイレの前にあるイスで、お弁当を食べている女子高生と、OLがいて、わたしは、
目が点になってしまいました。
大学では、一人でご飯を食べていると『ぼっち』と見なされ恥ずかしいと自分で思う。
という話を聞いて、それも驚き。
これだけ、多様性を受け入れろと世間はうるさく言っているのに、
そこは受け入れられないのかと、軽く憤りも感じました。
住みやすいように見えて、住みにくい世の中になってきたのかな。
さて、ここまでエライ長い前フリでした。
発売されて暮しの手帖の93の、『本屋さんに出かけて 編集部員が見つけた本』で
『日本のフェミニズム』北原みの編 河出書房新社が紹介されていた。
松田青子さんのエッセイもあるという言うから、とても気になる一冊。
そこには、大島弓子の『8月に生まれた子供』に登場する言葉を冒頭に、
『大島が、P・L・トラヴァースが、吉野朔実が、ヴァージニア・ウルフが、
メイ・サートンが、笙野頼子が、石井桃子が、そのほか多くの次世代の女性たちを守ってきたか、
その感慨が、のびやかな文章で綴られています。』とあります。
これだけのお名前が、並んだ暁には読まない手はありませんね。
ここで、編集者がもう1冊、自身の大切にしている本を紹介しています。
傷ついたと感じた日に決まって開く本として『小春日和 インディアン・サマー』金井美恵子
わたしの文庫棚にもあります。
一浪の末、念願の東京での大学生活が始まった桃子と
自堕落的な生活をしているとしか思えない小説家である叔母と、自分をオレと呼ぶ、親友の花子。
主人公がおふろくと呼ぶコンサバな母に、同性の愛人と暮らしているという家出をした父。
一見、暗くなりそうな家族背景も、そうでないのが魅力的でもある。
この世界では、携帯電話は出てこないし、FAXだって持っていない。
叔母は原稿を近所の文房具屋で、FAXを借りている。(1988年発刊だから当たり前か)
少女小説の定義を損ねてないと斎藤美奈子さんが書いていて、たしかに損ねられていない。
(あとがきが、いまさらにように斎藤美奈子だと気づいて、さらに驚いたわたし。)
かるーく読める割に、意外に問いかけられていることも多い。
前に読んだ時は、目白ってどこよ?だったけれども、
息子と娘が東京に進学したおかげで、目白にも何回か泊まった。
たしかに池袋で泊まるよりも、喧噪さはないし、
気持ち、優雅になれる、あの不思議さ。
たとえ、ISETANで買った食品をホテルの部屋で一人で食べていても、
なぜか、それは正当な優雅さだった。
正直、その優雅さは、今や定宿になっている東横インでは感じられないものだけれど。
さて、この『小春日和 インディアン・サマー』
読み直ししながら、これは娘のふみに送ろうと思った。
たまには、こういうのもいいだろう。
文中に、芥川もさらっと出てくるし、彼女にとっても、目白はまったく
知らない場所ではない。
それにしても、将来、どんな仕事をしようかなぁというくだりはおかしい。
そうだ。そうだ。わたしもこの頃は、いかに労力を使わずして
働けるかなどと考えていた。
でも、バイトはそれとは別で、どんな肉体労働も、時間外労働も気にもしなかったけれど。
by sorita-exlibris
| 2018-04-21 11:06
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