
夜が明けるまで
マヤ・ヴォイチェホフスカ作
清水眞砂子訳
岩波少年文庫
この本を読もうと思ったきっかけは、清水眞砂子さんの著書にて、
何度も目にしたことと、その紹介の仕方に魅力を感じたから。
そして生意気だと皆が口を揃えていう少女に、どうしても会いたく
なったからだった。
先日ここでも紹介させていただいた『あいまいさを引きうけて』で
もたっぷりと、この本の魅力が綴られている。
翻訳した当時、反応は大きく3つに分かれたと書かれている。一つ
は、主人公のマヤが生意気すぎて、子どもの風上にもおけない少女
として拒否をする人々。二つ目は、マヤこそ自分だと深い共感を寄
せる人々。最後に、どっちつかずの共感のまま、でもマヤこそ大人
は理解すべきだと考えている。清水さんの言葉をお借りすれば『良
心的』な人々。わたしはどれかというと、二つ目の、深い共感を覚え
た人にあてはまる。
まず思うに、子どもの風上にもおけないって、誰が決めるんだろう?
と思ってしまう。およそ子どもらしくないとはどんなことなんだろう。
まあ、わかるけれども、、。でもマヤは5才でも6歳でもない。もう
12歳なのだから、いろいろと考えるのは当然のことなのに。思うに
一番中途半端だから故かもしれない。12歳という年齢は。
舞台はポーランド第二次世界大戦が始まった1939年から1942年の
4年の間に、主人公マヤたちがポーランドを脱出し、アメリカに渡
るまでに起きたことを、マヤ自身の言葉で綴られたもの。
1939年9月1日の朝、宣戦布告なしにドイツ軍はポーランドに侵攻
した。ワルシャワに住んでいたマヤは、ドイツ空軍機に、まだもら
ったばかりの愛犬を射殺される。この時のマヤの決意は凄まじい。
******
さんざん憎んで、それさえいやになってくると、わたしは木をおりました。
(あの犬がどうなったか知ってるのは、わたしだけ。だれがなぜ、あんな
ことをしたのかつきとめるまでは、だれにも、なんにも話さないでおこう。)
わたしは心にちかいました。(仕返しの方法が見つかるまではね。わたしの
犬を殺したやつをこちらが殺してやるまでは……。)
(13p左から3行目〜14p1行目まで)
******
マヤのお父さんはポーランドの空軍の軍人で、本文によると家まで
飛んできてたようだ。この朝もマヤは飛行機の飛ぶ音を聞いて、
お父さんだと思い外に出てみると、もう飛行機の音は聞こえない。
当然、不思議に思い、誰でもするように空を振り仰ぐ。すると目に
入ったのは、お父さんの飛行機ではない翼に赤と白のます目がない
飛行機が飛んでくる光景だった。
マヤの頭上を、低く飛行しながら通り過ぎていったのだが、
後からきた一機が、なんとマヤと愛犬の横を低空飛行し、マヤたち
に銃弾を浴びせた。
一瞬、翼のかげで、犬が草よりも高くとびあがるのが見えました。
そうマヤは書いている。
その後、木にのぼって、なんにも考えないようにしよう。憎まない
ようにしようと必死で考えたマヤのそこからの、整理しきれない気
持ちが上に引用したものだ。マヤはまだその愛犬をもらってきたば
かりで父親にあわせてなかった。
わたしは、小さい時に、飼っていた犬を散歩に連れていこうとリー
ドに繋ごうとした瞬間に手をすり抜けていきました。想像通り、そ
のすぐ後に、惨事が起こり、犬は死んでしまった。
そのとき、自分を憎み、ちょうど通りかかってしまった車を憎んだ。
この愛犬を亡くすところをよく読むと、マヤは自分をパイロットと
同じぐらい憎んでいる、自分のしたことに後悔していることに気づ
く。愛犬は、マヤの腕をすり抜けて走りはじめたのだ。敵機が空を
飛ぶ下を・・・・。
とにかくマヤは、本文中、いつでもどこでも『マヤ』であり続けよ
うとする。妥協を許さない。“子どものくせ“に本気でドイツと戦お
うとする。ポーランド人であり続け、愛国心に満ちあふれ、そうし
ながら、子どもであり続ける権利を主張している。
第二次世界大戦中だろうと、戦争がない世の中で生きていようと、
思春期は誰にでも訪れる。でも、戦争時になると、子どもが子ども
でいられなくなってしまう。
マヤは確かに、きついことも言えば、驚きに耐えられない、とても
勇敢とも思えない、避難されるべき行動もする。
でも、きちんとひとつずつ読み込んでいけば、その一つひとつの行
動をすることに理由を見つけることができる。と同時に、子どもが
そうしてしまうことの、わたしたちが思う“なぜ?“にきちんと解答
をしてくれていることに気づいてほしい。
無謀なことを子どもが自らしようとしている時には、深い理由がある。
つい、目の前の事柄だけで説教をしてしまうが、自戒を込めて書いて
おこう。そういう時こそ、きちんと話を聞いてあげよう。話ができな
くとも、寄り添うことはできるはずだ、マヤの母がそうしたように。
伝えるべきことは伝えなくてはいけないマヤの父親がそうしたように。
わたしは常々、育児書よりもよほど育児書らしいのが絵本や児童文学で、
なによりも、親としての自分に指針をくれるもだと伝えている。
これは親だけの話ではない。どの年代も同じだと思う。
読み手のその年代で、語りかけてくるものが、それぞれの本にある。
以前、尊敬する児童文学作家の方が、人生のあらゆる場面は、電車の
車両のようなものだと話してくれたことがある。
目的も、行き先も違うかもしれないけれど、そのとき、たまたま同じ
車両に乗り合わせた。いろいろあるかもしれないけれど、受け入れな
がら行こう。そう教えることができる一番の場所が学校に行っている
時間なんだよ。そして、その間にたくさん読書をすることで、物語を
通して、たくさんの人間を見ることができる。そこでやり過ごし方も
覚えるんだよ、と。
やり過ごすという言い方に、不満を持つ人もいるかもしれない。けれど
我慢することと、やり過ごすことは違う。
マヤは、戦争下で、マヤなりにやり過ごす方法をいつでも考えた。その
時々で最善を考えた。そのなかで、大人に憧れ、不条理を憎み、自分と
いう存在が、存在する意義を求めた。外にも内にも。そして14歳のマ
ヤは恋もした。自分勝手に、好き勝手にしているように見えるマヤは、
自分のしていることが一番自分で嫌いでもあった。
でもある時、そのもがいて苦しい闇に光が射す時が来る。これは必ず来る。
必ず夜は明けるのだ。
最後の章を読み終えた時、285頁を共に生きてきたマヤが、生きて抜いて
よかったと胸をなで下ろした。
どうぞ、この本を読んでください。
大人が読んで、どうぞ子どもに手渡してください。
いえ、親が読んで、どうぞ我が子にすすめてください。
一家に一冊ぐらいの勢いでわたしはこの本をお薦めします。
この本との出会いをくださった清水眞砂子さんに感謝を込めて
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-27042692"
hx-vals='{"url":"https:\/\/soritaehon.exblog.jp\/27042692\/","__csrf_value":"649f239512c5ec4c3081f7da3d2b339e64d23ad0f45a50acd5579ae298a0fbb0034546b4f4500f0b06d3e1aeeed6169dc1de326d991a9c348fb83bf0b2f12b77"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">