太宰治の清貧譚から、聊斎志異まで
2021年 07月 19日

中国小説選
金 文京
監修 小川 環樹 本田 済
角川書店
お伽草紙
太宰 治
新潮文庫
友人に太宰治は好きかと聞かれ、戸惑ってしまった数年前。
実はその友人が太宰治をとても敬愛しているのを知っていたので
どうしたものだかと、言葉を選んでいたら、くすっと笑って
私の戸惑いをすぐ察知してくれた。
逆に彼女は、夏目漱石をとっても読むくせに、漱石は苦手です、と
言っていた。そしてわたしは夏目漱石が大好きな人なのだった。
わたしはこれを読んで初めて太宰治に魅了され、気になる存在(これまでも十分に
気になる存在ではあった。ハマってたまるかの時点で実は負けてる...。
あれ、これって三島由紀夫と同じ感情かも?)に昇格した。(上から目線でごめんなさい)
実はこの本を奨めてくれたのも、太宰治が好きな、本屋を当時営んでいた別の友人。
わたしがこの本の面白さを報告にいって、かくかくしかじかと話し始めたら
ふふふ。と計算づくの笑顔を向けられた。(笑)
この本をきっかけに、北村薫氏、そして《円紫シリーズ》にも魅了されたのは書くまでもないが。
件を聞いた最初の友人に「では、お伽草紙をお読みになって!!」と言われてから
読み終えるまでは1年以上要してしまったが、彼女の奨める本は他にも読んでいたので
そこは気長にまっていてくれたのはありがたい。
さて、ようやく本題に近づいてきたのだけど
もし『お伽草紙』を未読の人がいたら、わたしもぜひぜひと奨めたい。
筑摩書房の作る高校教科書には『清貧譚』などが掲載されているようで嬉しい。
さて、太宰治の『お伽草紙』に収められているものの中でも魅了された小説のひとつに
『清貧譚』がある。菊の精と添い遂げた男の話なのだがとても美しい。
もうひとつ『竹青』というのもある。この二つの原点をきちんと読みたくて探していてであったのが
角川書店の鑑賞中国の古典 中国小説選 金文京氏 こちらは絶版のようでもう買えない。
実は金文京氏は、尊敬するK先生に別の本のことで尋ねたら、ぜひこの人の本をと紹介してくださった方。
申し訳ないことにお目当ての本ではなく、さきにこっちを借りてしまったのだが、
それが大当たりだった。K先生ありがとうございます。
漢文、白文に口訳がつき、聊斎志異の『黄英』(清貧譚)の作者の蒲松齢の背景も詳細に載っている。
読み終えて気づいたことをいくつか記すと、
この蒲松齢の書いた『黄英』は、わたしたちが使う原稿用紙でいくと4枚半。
しかし、太宰は原稿用紙30枚前後の好短篇を読了した時と同じ満足感があると書いている。
太宰はこれに独自の創造性を加えて『清貧譚』を仕上げているのだが、もはやこれはこれで
彼の『清貧譚』でしかない、というのが読み終えての感想。
ため息ものの、そりゃ天才なはずだわ、という言葉も漏れたのも事実。
また個々をきちんとブログにて書き残したいと思う。
ちなみに、聊斎とは聊(むだばなし)をする書斎で、異(ふしぎ)なことを書き志(しる)したという意味。
井原西鶴の『西鶴諸国はなし』を太宰の言葉を借りれば「読者に珍味異香を進上しようと努めてみるつもり」とある。
『清貧譚』も『新釈諸国噺』も十分にそうなった。さらにいえば書名にもなっている『お伽草紙』の
「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の魅力的なこと。
防空壕で子どもに語り聞かせる昔話から、こんなことも考えていようとは、思わずくすりとさせられた。
さて、この角川の『中国小説選』を読んでいて想像したことをもう一つ。
蒲松齢の妻をモデルにしたと言われる『黄英』を、自分の想像を加えて書きたくなった太宰。
もしかしてこの黄英と自分の妻美智子を重ねたのでは?と思ったのだけど、
食わず嫌いで読んでいない『斜陽』を読んだら印象が変わるのだろうか。
どちらも高校生からおすすめです。
といいながら、なんで当時は漢文に魅力を感じなかったのかしらんと
頭をかしげるわたしであった。
最後に、金 文京氏の言葉で痺れる箇所があった。
冒頭に小説とはを最初に記されている文献の言葉が記されていて
その箇所もとても面白いのだが、p15の「総説」の中の「歴史と小説」
から少し抜粋したい。
当時は小説というものがとても軽んじられているのだが
『漢書』『芸文志』は、小説において「君子は為さず」とあり
儒家から小説家までの諸子十家を列挙したあと、『諸子十家、其の観る可き者は、九家のみ』
と小説を九家から排除をしている。
しているにもかかわらず、抹殺することはなかった。
ここからが痺れるところ。
『否定はするが抹殺はしないというのは、歴史家の態度ということができるであろう。
思想、哲学、宗教、政治など、およそ一つの主義信条に拠る立場を取るならば、
その反対の、攻撃すべき、否定すべき、抹殺すべき立場もしくは文献が生ずることは避け難い。
これに対して、歴史の立場に立つならば、抹殺すべき文献というものは存在しないであろう。
なぜならば、歴史家の目から見る時は、存在するあらゆる文献はすべて史料だからである。
史料には、役に立つものとそうでないもの、信憑性の高いものと低いものの区別はあるが、
抹殺すべき史料というものはない』
先日の加藤陽子氏の言葉に繋がり、またわたしは震える思いがした。
こういう出会いが、本当に多角的な出会いがあるから読書はやめられない。
さて、『竹青』のもとを探さねば。
でも、すぐ出会える気がする。
by sorita-exlibris
| 2021-07-19 19:07
| 太宰治
|
Trackback
|
Comments(0)


